引き寄せの法則

引き寄せの法則

波動で引き寄せる

 

「氣」とは「波動」である。

 

 

 

引き寄せは波動だ。
自分の出している波動が現象を引き寄せている。

 

 

電波と一緒で、同じ周波数のものにピタッと合わさって
テレビが見れたり、ラジオが聴けたりしている。

 

 

 

良く、霊に憑依される人がいるが
アレも同じ周波数を自分が出しているので
引き寄せてしまうのだ。

 

 

別に霊の方も、この人に取り憑いてやろう、とか
思っていなくても、

 

たまたま通りがかった人が同じ周波数を出していて
知らなーいうちにピタッと合わさって
同化してしまうということも、よくあることだ。

 

 

だから、自分の出している波動次第

 

起こる現象も、付き合う人も、健康さえも
決まってしまうのだ。

 

 

 

霊に取り憑かれやすい人は、よくよく考えてみてほしい。
自分が暗い波動とか、不安な波動とか、恨めしい波動とか
妬みの波動とか不満の波動とか、

 

そんなものを出していないか、よく考えてみよう。

 

 

 

暗くて恨めしい霊は、暗くて恨めしい波動が心地よいのだ。
明るくて楽しい人には取り付きにくい。

 

 

 

霊感が強いと思われる敏感な体質の人には、
アンテナは常に上に向けておくようにお伝している。

 

 

自分のアンテナを、
天の高い波動のところに向けていれば
わざわざ、波動の低い
厄介なモノを見る必要はなくなる。

 

 

自分のアンテナは、天に向けておくことである。

 

 

 

私も、昔はどこへ行っても
よく具合が悪くなったタチだ。

 

いつもビクビクしていたし、怖がっていたからだろう。
同じ周波数のモノを引き寄せやすかった。

 

 

 

私は、そんな時は祖父がいたし、
近所の祈祷師のおばちゃんがいたので

 

よく加持祈祷をしてもらっていた。

 

 

 

どんなに具合いが悪くても、スーッと良くなる。

 

離れていても、電話でお願いすると
スーッと良くなる。

 

 

その頃は、具合いが悪くなってはお願いする、
その繰り返しであった。

 

まだ自分というものも確立できていなかったし、
なぜそういう現象になるのかも分からなかったから
ただ、助けて、と、すがるだけだった。

 

 

でも、そのうちに悟って行くのだ。
このままではいけない、と…

 

 

ずっと頼っていては自分ひとりでは生きて行けなくなる。
爺ちゃんや、おばちゃんがいなくなったら、
私は生きていけなくなる。

 

どうせ、だれも代わってはくれない。
自力で生きていかなくてはいけないのだから。

 

 

 

そう気がついてから、
色々なことを勉強するようになった。

 

 

学校の勉強は、嫌いだったが
生きる為の勉強だ。こちらは投げ出すわけにはいかない。
目に見えない世界の事を、色々体感しながら
研究するのは面白かった。

 

 

自分の体が変わり、元気が出てきた。
元気が出ると、行動するようになる。
そしたら、気持ちもだんだん落ち着き、強くなった。

 

 

自分の体の軸をしっかり保つことができると
ブレなくなる。

体もそうだが、心もブレなくなる。

 

 

結論から言うと、
体がヘナヘナしていて弱っちいうちは
体も心もブレブレである。

 

 

体の中心軸を通す、という事
それは、背骨をアンテナにする、という事である。

 

 

 

背骨がスーッと天に伸びて
足は地面をしっかり捉えた時に

 

天と地と自分が一直線につながって、
高いエネルギーが、体の中を、とうとうと流れるのである。

 

 

 

そして、それが、
アンテナが天に向かっている状態なのだ

 

いつでも神さまと一体となっている。
そこに、恐れや不安はない。

 

 

そうは言っても、人間はときどきブレる。
ブレたり迷ったりするのが人間である。

 

 

でも、そういう事を、知っているのと
知らないのとでは、雲泥の差である。

 

 

 

知っていれば、その体に戻れば良いのだから。
一瞬で戻ることは出来るのだから。

 

 

 

体が変われば気持ちも変わる。
姿勢が変われば、人生も変わるのである。

 

 

 

良いものを引き寄せたいなら
自分が良い波動を出すことだ。

 

 

 

それは、意識だけでなく体を使うこと
知らないうちに

 

引き寄せられるようになっている。

 

 

 

 

 

与えるものが受け取るもの

出した分だけの愛情を感じられない時

 

 

与えるものが受け取るもの
という波動の法則がある。

 

だから、同じ波動を受け取る、
引き寄せが起こるというわけだ。

 

 

けれども、自分はこんなに愛情を注いでいる、
無償の愛を捧げているのに

 

夫は何もしてくれない、
子供は当然のような顔をしている、
私の苦労は、報われていない、

 

と、そう感じている人も多いのではないだろうか?

 

 

それは、ですね・・・

 

 

自分の分の愛情が、まだ足りていないのが原因だ。

 

自分が自分を、充分に
愛情で満たしてあげていないからだ。

 

人の事を先にしようと思うと、

 

え?わたしは?
わたしはどうなるの?
と、忘れていた感情が出てくる。

 

 

自分が温かい愛情で満たされていて、
現状が充分に幸せだと感じているならば、

 

愛情は自然とあふれてくる。

 

あふれてきていないのなら、まだ早いのである

 

まず、自分を愛してあげなければ・・・
大切にしてあげなければ・・・

 

 

私は、その昔、
ものすごく災難が降りかかった事がある。

 

夫のために、子供のために、
家族のために・・・と思って、頑張っていた時の話である。
自分の事は後回しで、全部我慢した。

 

そして、その時に
自分以外の事がが原因で、不幸の波が押し寄せてきた。

 

 

 

神さま、なぜですか?
私は、何にも悪いことはしてないし、
家族のために、こんなに自分を犠牲にして
頑張っているではないですか・・・

 

 

そして、その時に悟ったのだ。

 

神さまは、自己犠牲はだめなんだよ、と言っている。
自己犠牲は、良いことをしていても
自分だけが不幸だと思っている。

 

自分は、我慢しなければいけない存在だと思っている。

 

我慢は、恨みになる。
自己犠牲は良くない。

 

 

だから、自分の意思を確認することから始めた。

 

本当にそれはやりたいことか?

 

 

子育ても介護も、
本当にやりたくてやっている時は、幸福感がある。

 

子供との時間が、親の世話をする時が、
本当にありがたいと思える。

 

 

そこに、無理が入ってきたら、
なぜ自分だけがこんなに大変なのだろう、という
いやな波動になる。

 

だから、無理はいけないのである。
無理のない範囲で、喜んでやれば良い。

 

 

なかなかできないことだとも思うけれど、
自分を愛する事を優先させることだ。

 

自分が自分を大切にしない限り、
人からは大切に扱われない。

 

 

 

自分がやりたいこと、気分が良くなること、
それは何だろう、と良く考えて、

 

行きたい所には行く段取りをして、
会いたい人には会いに行くことをする。

 

自分だけがわがままなような気がするが、
それは気のせいだ。

 

欲しいものも買ってしまおう。
無理のない範囲に。

 

 

だいたい、周りの人を見ていても(私も含めて)
いい人が多すぎる。
つい、自分を犠牲にして、人の事を優先させてしまう。

 

だから、ちょっとくらいは良いのだ。
全然平気だ。

 

 

自分のためにお金を使おう!
時間も使おう!

 

 

そうやって、充分に自分に愛情を注ぎ
充分に幸せに包まれた時に、

 

人にしてあげたらいいのだ。

 

 

自分のコップは、愛情が満タンであふれている状態。
そのあふれた分だけを、注いであげたらいい。

 

 

あなたが幸せになる事が、
家族も幸せになることで、

 

 

それが、神さまの願いでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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